2025年2月8日、元ロッテの名捕手・袴田英利さんが脳出血で亡くなったことが、3月30日に明らかになりました。
享年69歳。
昨年10月には元気な姿を見せていたこともあり、あまりに突然の訃報に、野球界からもファンからも大きな驚きと悲しみの声が上がっています。
この記事では、袴田英利さんの死因とともに、名捕手としての歩み、プロ・アマ問わず野球界への多大な貢献について詳しく振り返ります。
袴田英利の死因は?
元ロッテの袴田英利捕手が69歳で急逝。法政で江川卓、プロで村田兆治の球を受け村田の引退時に「俺のキャッチャーはお前以外いないんだ。だから俺と共に去るんだ!」と言われ引退。半年前ノーサインで受けていたエピソードを「フルタの方程式」で楽しそうに語っている。謹んでご冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/DbCEkplCsI
— ジャズバーのマスター (@dsyasu) March 30, 2025
2024年の年末、軽度の脳梗塞を発症したという情報がありました。
通院で一時的に容体は落ち着いたものの、2025年2月8日に再び容体が急変し、脳出血により帰らぬ人となりました。
69歳という年齢は、決して「高齢」とは言えない世代。突然の訃報に、驚きを隠せなかった人も多いのではないでしょうか。
昨年10月には、元ヤクルト監督・古田敦也氏のYouTube番組に出演し、昔の思い出話を楽しそうに語っていた姿が記憶に新しいです。
「村田兆治のフォークをノーサインで受けていた」と笑顔で語る姿が印象的で、まだまだ野球界で活躍してくれると信じていた人も少なくありません。
袴田英利の経歴やプロフィール紹介
1977年、法政大学からドラフト1位でロッテに入団。
その後、1990年に現役を引退するまでの13年間、ロッテの扇の要としてプレーしました。
入団当初はなかなか出場機会に恵まれず、最初の4年間は控えに甘んじる日々が続きましたが、努力を積み重ねていく中で信頼を勝ち取り、ついには正捕手の座をつかみ取りました。
ロッテのエースだった村田兆治投手とのバッテリーは、今でも語り草になっています。
マサカリ投法で知られる村田投手のフォークやシュートを、体を張って止め続け、ゲームをコントロールするリード力はまさに職人芸。
地味ながらも、着実に投手陣の信頼を得て、チームの屋台骨を支え続けました。
正直に言うと、プロ野球の試合で目立つのは打者やエース級の投手。
でも、こうした職人タイプの捕手がいるからこそ、試合は成り立っているんですよね。
法政大学時代
静岡県の自動車工(現在の静岡北高校)から進学した法政大学では、“昭和の怪物”と称された江川卓投手とバッテリーを組み、東京六大学リーグで5回の優勝を経験。
2年生から正捕手としてマスクをかぶり、圧倒的な強さを誇った黄金時代の一翼を担いました。
江川投手の剛速球を受け止めるには、技術だけでなく、相当な覚悟と集中力が必要だったはずです。
プロ野球の現場でもそうですが、大学野球の時点でこれほどの大投手とコンビを組み続けることは、並大抵の実力ではできません。
野球センス、頭脳、キャッチング、投手との信頼関係。どれもが一級品だったことは間違いありません。
学生時代の映像を見たことがありますが、豪快な江川投手の投球を冷静に受け止める姿に、ただただ感心しました。
野球は投手だけでは勝てない、そう感じた瞬間でした。
プロでの活躍
プロ入り後は、村田兆治投手の専属捕手とも言える存在となりました。
1978年、初めて先発マスクをかぶった試合でいきなり村田投手とコンビを組み、その後は数々の名勝負を共に戦いました。
フォーク、シュート、ストレートと多彩な球種を駆使する村田投手にとって、信頼できる捕手は不可欠でした。
ノーサインでフォークを捕るというエピソードもあるように、投手の癖やタイミングを熟知していたことが伺えます。
「常に緊張感があった。なんとか止めなきゃと思っていた」という言葉からも、捕手としての責任感と集中力の高さが伝わってきます。
村田投手が通算215勝を達成できた裏には、マウンド上で冷静に試合を導く存在があったからこそ。
見えないところでチームを支えることの大切さを、あらためて実感させられました。
実績
プロ通算成績は911試合に出場し、打率.231、38本塁打、231打点という成績を残しました。
決して派手な数字ではないものの、数字以上に価値のある仕事をこなしてきた名捕手でした。
試合中のリード、投手とのコミュニケーション、守備時の声かけ、試合の流れを読む力など、捕手に必要なすべてを持ち合わせていた存在です。
個人的には、こうした職人肌のプレイヤーに心惹かれるタイプなので、地味ながらも確実に結果を出し続けるスタイルに尊敬の念しかありません。
指導者として
現役引退後は、ロッテや西武でバッテリーコーチとして活躍。
中でも、ロッテ時代にはのちに日本代表としてWBCに出場した里崎智也捕手を正捕手へと育て上げた功績が光ります。
自身が経験したことを若手に惜しみなく伝え、次世代を育成する姿勢に、多くの指導者が影響を受けました。
「給料なんてあってないようなもの。ただ、野球界に貢献したい」という発言にも象徴されるように、肩書きや報酬に縛られず、純粋に野球の未来を思って行動していた人物だったことがわかります。
そういった生き方には、深い尊敬と感謝の気持ちしかありません。
社会貢献
2022年に村田兆治投手が亡くなった後、その遺志を継いで「離島甲子園」を引き継いだことも忘れてはいけません。
離島地域の子どもたちに野球を教え、野球を通して夢を与えるという活動に情熱を注ぎ続けました。
大都市だけでなく、どんな場所にも野球の楽しさを伝えたいという強い思いがあったからこそ、続けられた取り組みです。
プロ野球での経験を持ち、そして人柄に魅力があったからこそ、子どもたちの心にも自然と響いたのだと思います。
こういう地道な活動こそ、本当に価値のある野球普及活動だと感じています。
まとめ
袴田英利さんは、プレイヤーとしても指導者としても、常に野球界の中心で活躍してきました。
脳出血という突然の病に倒れたことは、本当に悲しいことですが、その生涯は野球への愛と情熱にあふれていました。
静岡から法政大学、そしてプロ野球へ。
時代のスター投手と肩を並べ、チームを支え、引退後も後進の育成に尽力する姿は、今後も語り継がれるべきものです。
これまで積み重ねたものは、数字だけでは語り尽くせない価値を持っています。
名捕手の存在は、表舞台に立たなくても、確実に野球というスポーツを支えてきました。
その姿勢に、心から敬意を表したいです。
袴田英利さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。







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